若い時代、NHK(渋谷)の中で仕事をしていた時期がありました。
NHKの中にデザインセンターという場所があり、そこでデザイナーとして、ニュースに使うフリップの作成や、テロップ作成、グラフィック全般をやっていました。
受付カウンターがあって、そこにスタッフが発注しにくる感じの職場で、常にバタバタと賑わっていた記憶があります。
そこでの、昔ならではのエピソードなどを抜粋して、なんとなくノスタルジーに浸ってみます。
フリップデザイン
フリップデザインは、例えばその日のニュースに使うものをディレクターさんが発注しに来て、そのOAに間に合うように制作します。
まず打ち合わせをして簡単な手書き原稿をもらい、Macでデザインをします。チェックを受け、OKが出たら、大型のプリンターでそのデザインを出力。それをボードに貼り付け、カッターで切るところまでやりました。急いで指を切ってる人もいました。文字を隠してめくるものは、その文字のレイヤーを消してその部分だけを印刷し、両面テープに貼ってその形に切って、上から貼り付けます。
紙焼きテロップ
当時、紙焼きテロップというものがわずかに残っていました。今は絶対にないですが、黒い背景に白文字でタイトルなどを書いた紙を作るという、超原始的なものです。黒い部分が抜けて、白い文字だけがスーパーとして乗っかる感じです。昔は、黒い紙に白いインクなどで手描きでしたが、その当時は、さすがにPhotoshopやIllustratorでやっていました。
ちなみに、手描き職人の大御所みたいな方が隅っこにいらっしゃいました。その人に使わなくなったVHSビデオデッキをもらったのですが、今もそれを持ってます。
キャスクロ
キャスクロとは、キャスタークロマキーの略で、ニュースキャスターの肩の上くらいに出てくるグラフィックのこと。番組制作のフロアへ出向する形でした。ディレクターがそのニュースの映像の一コマをキャプチャー。その画像を受け取り、合成して、そのニュースの概要を伝える画像と見出しタイトルを作るという仕事。例えばどこかの大統領のニュースがあったとしたら、その大統領が映ったコマのキャプチャー画像を切り抜き、いい感じの背景と組み合わせます。スピードを要するので、手が速くなりました。国際放送のニュースだったので、スタッフは外国人で、英語でした。
番組のグラフィック
番組内で使用するグラフィックをトータルで作る仕事もしました。まず番組立ち上げ時に、テロップやコーナーなどのフォーマットデザインを作成。そしてその番組の運営。収録に合わせて、そのフォーマットやその番組に必要なグラフィックを何十枚も作っていきます。収録時にはサブで待機して、修正が必要な場合に備えます。収録中に文字の修正して差し替えすることもありました。かなり焦ります。これも収録直前はフロアにあるMacで制作してました。ちなみに、そのテロップなどは、C-VIPSという特殊なフォーマットで、MOというメディアに入れてました。(その後、ハイビジョンのHD-VIPSも登場した。今は知らない。。)これも英語の情報番組でした。スタッフは日本人。
紅白の裏で
ある大晦日、隣のホールで紅白歌合戦が行わてる時にシフトで入ってました。もちろんよっぽどのことがない限り、その時間帯の発注などありえないので、やることがない。一緒にいた同僚とず~っとバカ話で盛り上がってました。仕事終わってもそこに居続けて、元日の朝に帰った記憶が。。
色補正地獄
ある絵本作家の絵本をスキャンし、その色をプリントアウトで忠実に再現できるまで何度も色補正しまくったことがありました。やってるうちに、何が正解なのかわからなくなってました。
小さな旅地獄
「小さな旅」という番組があるのですが、それがお昼食べて帰ってきたあとくらいに職場のテレビで放送されると、やたら眠くなっていた記憶があります。テーマ曲を聴けば分かる人もいるのではないかと。
とにかく広すぎる、人も多い
とにかく広い建物なので、よく迷子になりました。どのエレベーターに乗ればどこに行けるのか、そもそもそれはどこにあるのか、など、ドラクエのダンジョンのような感じ。移動するのも一苦労でした。
人も行き交っていて、ぶっちゃけ誰が誰だか。地下に喫茶店があったのですが、その周辺はあまり人がいなくて、地下に行くとなんか落ち着いた記憶があります。
CGだけを電波で飛ばす
ネットやデータ納品が発達してない当時は、放送用テープにCG映像を収録して、それを編集さんに渡すという流れでした。ある時、北海道の局で使うCGを、電波を使って北海道に飛ばして納品ということがありました。今ではネットのファイル便でOKですが、当時は、作るのはデジタルだけど受け渡しはアナログな感じでした。ちなみに、編集さんは卓と呼ばれる編集機でジョグをぐるぐる回していました。今はもう、ほぼないでしょう。
今考えると、この時期に、いろんな意味で鍛えられた気がします。若かったので反抗的な部分もありつつ、でも周りの人に助けられ、短い期間でしたが、かなり濃縮された時間を過ごしました。その後、映像プロダクションに入り、またNHKの仕事をしていたのですが、子供の頃に見ていたNHKに自分がいて、自分が作ったものが全国、全世界に流れてるという不思議な感覚は、良い思い出。全てはここからスタートしました。